石上神社の起源については詳らかではないが木下宮司の家に傳わる古文書に依れば此地は古くは武蔵國入間郡三芳野の里大塚村と言ひ古墳を氏神塚として尊崇して来たが嘉元二年(1302)の頃氏神塚の下の川の深い渕の中より漁師の手綱に再三掛った石を氏神塚に安置し当時中里郷の前にあった広伝寺のすすめによって石上明神としたものであると記されて居る。
後に川の流が南に変りその跡へ広伝寺が移り来って石上明神の別当職となり栄えたが天正十八年(1590)豊臣秀吉小田原攻城の際その手勢によって焼き払われ「これによって三芳野天神の堂宇尽く焼失せり」云々とあり爾来堂宇の再建中々成らず長い間雨風に晒されその為氏子の雪隠に屋根を葺かない習慣となり「大塚の屋根なし雪隠」と云ふ言葉が生れる程であったと云ふ。これについて県文化財保護委員大護八郎氏は「初めは三芳野天神であり焼失後再建され勧請されたものが石上明神である事は明らかである」と指摘して居る。拝殿正面に掛る「石上宮」の神号額は全徳寺第七世國水伝春が明和四年(1767)揮毫し篆刻奉納したものである。
文化六年(1806)坂戸宿棟梁高山兵部藤原師美の手によって拝殿が作られた。何時の頃からか子授安産の神として尊崇され春秋の祭典には近隣より参詣の人々群をなし俗に「押上様」と云われる程栄えたと云ふ。
大正十五年春屋根の葺替えを行い昭和六年柏槙の天然記念物指定により後方へ約二米程引き昭和三十五年本殿覆殿の根継ぎを行ひたるも拝殿の破損著るしく昭和五十二年遂に解体しこれを再建しようとする氏子の熱意により内外より多額の浄財の寄進を得て精緻を極めた彫刻類は悉く使用し坂戸市仲町安斉利一氏の手に依って昭和五十三年十月竣工したものである。
昭和五十五年(1980年)四月 氏子中
埼玉県指定天然記念物
入西のビャクシン
坂戸市北大塚一三八
昭和六年三月三十一日指定
このビャクシンは、樹高十二メートル、樹周約三メートル枝下五メートルの大木である。幹も枝も赤味がかった褐色で、たてに無数の裂け目をみせたまま大きくよじれているので、土地の人々は「ねじり木」と呼んでいる。
ビャクシンは、ヒノキ科の常緑針葉針葉木で、正式名称は「イブキ」であるが、ビャクシンと呼び慣わされている。樹高は普通十五〜十七メートルで、巨木は四国、和歌山など温暖な地方に多い関東では、直径一メートル以上のものはきわめて少なく、鎌倉の建長寺、湯河原の城願寺のほか県内では川口市芝の町徳寺にある、よじれて奇異な樹相を呈しているこのビャクシンには、次のような伝説がある。
「住古、諸国巡錫の、ある名僧が、この地にたたずみ、手にした枝を地面に突き立て、枝葉茂りて栄ゆるようにと祈ったところ、祖の枝が出、葉がついた」
昭和五十一年三月十五日